モニ2300型

長谷寺付近を走るモニ2305他 近鉄
2305を最後尾に2200新3020など多彩な編成の大阪線急行 S47.4.30
  • 旧参急デトニ2300型は8両製造され6両が晩年まで大阪線急行の先頭で活躍した。その6両をフィルムにとどめていたので紹介する。
  • シュリーレン型台車に履き替えた2301号
    シュリーレン型台車に履き替えた2301号
    S45.9.15 八木駅上本町で発車を待つ2302号
    上本町で発車を待つ2302号
    難波地下乗り入れ後大改装中の上本町駅で S47.1.302303号 初代は戦後レクリエーションカーに改造された
    2303号 初代は戦後レクリエーションカーに改造された
    室生口大野-三本松間 S46.7.17山田線ローカルに運用中の2304号
    山田線ローカルに運用中の2304号
    明星 S46.5.91号とともにシュリーレン台車に履き替えた2305号
    1号とともにシュリーレン台車に履き替えた2305号
    国分-関屋間 S46.4.4布施で榛原行準急を追い抜く2306号他の宇治山田行急行
    布施で榛原行準急を追い抜く2306号他の宇治山田行急行
    大阪線急行の先頭で最後の力走 S47.11.26モニ2300一般席部分
    モニ2300一般席部分
    板張りの向こうはコンパートメント S44.04.20コンパートメント室の座席
    コンパートメント室の座席
    S44.4.29コンパートメント通路部の屋根
    コンパートメント通路部の屋根
    S44.4.29

コメント

  1. 学生時代に撮った2300ですが、改造された2両を除き残った6両を撮っていたので投稿させていただきました。延べ4年間と短い間でしたが、ネガを探し出すのはやっぱり大変で大分時間がかかってしまいました。ピントが甘かったり、シャッター速度が遅かったのかブレたものもありますがご笑覧ください。当時は広角レンズを持っていなかったので、室内写真はあれで精一杯でした。
    昭和48年以降のネガに写った2200系の急行は殆ど4両編成で2300が先頭に立ったものは無く、47年中に運用を終了し多くが2600系等の新性能電車に置き換えられて行ったものと思われます。

  2. 南本さん、懐かしい写真を見せていただきまして有難うございます。
    実は,私と近鉄モニ2300形は結構縁がありまして、高校の通学時に度々乗車しておりました。と言いますのは、1963(昭和38)年度から1965年度までの高校生時代、豊中から梅田まで阪急宝塚線、大阪から鶴橋まで国鉄大阪環状線、鶴橋から上本町までの1駅間だけですが近鉄を利用していました。ずいぶん贅沢な通学コースで、今では親に負担を掛けていたんだなと思っています。
    大阪環状線から近鉄に乗り換えるとき、奈良線は未だ小型車が多く、乗降時に少しかがまないと帽子が脱げそうになるのと、何よりも混雑が激しいので、もっぱら大阪線を利用していましたが、ちょうどその時にホームに滑り込んできたのが2200系の急行(だったと思います)で、前の方は混んでいるので最後部の車両に乗るとモニ2300形でした。今も何となく記憶に残っているのは、ずいぶんと魚臭かったことです。

    • 拙い写真ですが喜んでいただけると投稿した甲斐があります。
      小学生の頃に見た2200系の印象は、普段見慣れた小型車両と違って堂々としたダークグリーンの車体と大きなパンタ、迫力のあるダブルタイフォンと広々とした車内でした。実際に乗車した回数は数えるほどですが、昭和49年に行われた「さよなら乗車」でやわらかなイコライザのゆったりとした揺れに身を任せたものでした。このときの様子も折を見て投稿したいと考えています。
      モニ2300は6両あったので大方の急行に連結されていたはずですが、いざファイルを探してみると、1号や5号は沢山撮っているのに4号、6号は殆ど無く全部揃っているのを確認したときは、これで何とか投稿できるとほっとした次第です。

      • デトニ2300のコンパートメントは豪華な感じがしました。よく伊勢方面の行商の方が利用したのか魚のにおいが車内に残っていました。阪急京都線のp−6とともに近鉄の2200系は関西私鉄黄金期の車両と思っています。

        • 拙い写真をご覧いただきありがとうございます。モニ2300型は昔ファンが「昔のデトニ・・・宇治山田行急行の先頭になくてはならぬ役者です。4連ぐらいだと頭デッカチで、6連ぐらいでないと平均がとれない。」と評したくらいどっしりとした存在感のある車輌でした。昔はハニやハユニといった合造車など珍しくなかったでしょうが、一端が需要がどれくらいあったのかわからないコンパートメントというのは当時としても思い切った設計だったのではと思います。私も近鉄ファンの端くれとして若い頃にペーパー製ではありますが、80分の1の模型を作ったものです。