関西本線を走った 特急「あすか」 (記念券追加)

特急「あすか」 国鉄
木津川橋梁を渡り終える
  • 特急「あすか」の写真が出てきたので、投稿します。
  • 特急あすか号運転開始記念券
    特急あすか号運転開始記念券
    記念券が出てきました。珍しいので追加します。裏には、停車駅と時刻が記されています。奈良駅の列車案内板
    奈良駅の列車案内板
    8時44分発、名古屋行き特急「あすか」の案内。5番線からの発車。
    国鉄(現JR)奈良駅特急「あすか」
    特急「あすか」
    奈良駅停車中
    国鉄(現JR)奈良駅特急「あすか」
    特急「あすか」
    奈良駅を発車、名古屋に向かう
    国鉄(現JR)奈良駅停車駅案内表示板
    停車駅案内表示板
    特急「くろしお」と特急「あすか」の停車駅の案内表示板が、食堂車にあった。   この2列車が共用であることが分かる
    キシ80の車内サボ
    サボ
    特急「あすか」のサボは、特急「とき」と同様、漢字と併記されていた(ヘッドマークも同じ)
    国鉄(現JR)奈良駅特急「あすか」
    特急「あすか」
    南山城の山間部を走行(後追い撮影)
    大河原駅東?特急「あすか」
    特急「あすか」
    笠置駅を通過
    笠置駅東特急「あすか」
    特急「あすか」
    笠置渓谷を走る
    笠置~大河原間

コメント

  1.  1965年3月1日から1967年9月30日まで、名古屋と東和歌山間を、関西本線・阪和貨物線・阪和線と走った、特急「あすか」の写真を投稿します。
     今では、キハ120形の気動車が1・2両で走っている関西本線ですが、かつては、キロ80を2両とキシ80を組み入れた7両編成のキハ82系気動車特急「あすか」が走っていました。
     特急「あすか」の営業運転に先駆けて行われた試乗会に、奈良から金岡(現堺市駅。特急「あすか」が走り出して、駅名が変わった)まで乗せていただきました。試乗会が初めてだったので、わくわく気分で乗り込み、車内をうろうろしていたことを思い出します。また、阪和貨物線(八尾から杉本町まで。現在は廃線)を、客扱いの列車が走るのが珍しく、車窓の風景が印象に残っています。食堂車の停車駅案内表示板は、その時に撮影したものです。
     特急「あすか」が走り始める前、中京工業地帯と阪神工業地帯の南部を結ぶ特急「あすか」という謳い文句を聞いたことがあります。これも本当だと思います。しかし、本当は、同時に誕生した、特急「くろしお」の名古屋での留置を避けるために、特急「あすか」が生まれたというのが本当のようです。
     このキハ82系気動車は、和歌山機関区所属でした。朝、特急「くろしお」で天王寺を出て夕刻名古屋に着く。翌日の昼頃まで名古屋に置いておき、天王寺行きで帰ってくるとなると、効率が悪いうえ、名古屋で名古屋鉄道管理局に車内清掃等でお世話にならなくてはなりません。それを自分ところで行うがために、名古屋到着後、関西本線を走らせて東和歌山まで車両を戻したのです。また、名古屋発の特急「くろしお」も、発車までに、関西本線を走らせて車両を送り込むことを考えられて、誕生したのが、特急「あすか」です。和歌山と名古屋間を空気を運ぶより、客扱いをして、ビジネスマンを運んだ方がいいだろうと考えたのでしょうね。特急「くろしお」があっての特急「あすか」でした。
     いろんな思いがあって誕生した特急「あすか」でしたが、誕生して2年半後の1967年9月30日で役目を終えました。

  2. 懐かしい写真を見せていただきありがとうございます。
    当時の新聞によると「あすか」の試運転は昭和40年2月7日に始まったようで、そのことを新聞で知り改正までのわずかな間ではありましたが7時20分頃奈良駅に着く試運転列車を毎日のように見に行きました。正規のダイヤでは奈良到着が8時41分だったので学校の始業時間との関係から見ることは叶いませんでしたが、その後通うようになった高校の近くを関西線が走っており、1時間目が体育の授業の時には走ってゆく姿をちらちらと眺めたものでした。
    当時は滞留設備との兼ね合いから名古屋で一晩留め置くことができず、朝東和歌山から名古屋まで回送で走らせるくらいなら客扱いをした方がましというところだったということを趣味誌で知りました。そのためダイヤは通気C8(上り10‰での均衡速度が時速88キロ)というもので、名古屋ー奈良間は最速の上り列車でも2時間7分で準急時代の「かすが」に1分及ばないというものでした。左はさりながら、当時は最後の特急路線と言われていたようで山陰線の京都口や四国はおろか中央本線、高山線にも特急列車など無かった時代、奈良を特急列車が通るということに誇らしさを感じたものでした。
    その年の10月改正から王寺にも停車するようになると共に所要時間も延び、ますます特急らしからぬ列車となりましたが、走行時間帯から低乗車率はいかんともしがたく名古屋での設備完成と共に廃止となったのはやむを得ぬところでしょうか。今や名古屋と奈良を結ぶ直通列車すらないですから。

    •  より詳しい解説、ありがとうございました。
       乗客が少ないのは、当初から予想できたことですね。走り始めた時は、全車指定席でしたし、キシ80の食堂車も営業をしていました。しかし、1年後には、キロ・キハ各1両が指定席で残っただけで、後の車両は自由席になりましたね。キシも営業休止になりましたね。そして、2年後には、全車自由席になりました。キロ80の2両もですよ。キシの食堂車は営業休止のまま。いかに乗客が少なかったか分かりますね。面白い特急「あすか」でした。
       先日、『関西本線の活性化のために、トワイライトエクスプレス「瑞風」を走らせたら、人が集まるだろうなあ~』なんて、友達と話していました。加茂・亀山間が赤字でどうにかしなければならないのであれば、「瑞風」登場もアリかな。パックツアーだから乗客の変化はないからね。こうすると、「あすか」以来の特急の登場になるのに・・・。
       こんなことを考えながら、「瑞風」や「あすか」の写真を眺めていました。

  3.  2年前に投稿した自分のコメントに間違いがあったので訂正したいと思います。
    「当時の新聞によると「あすか」の試運転は昭和40年2月7日に始まったようで・・・」と書きましたが、同年2月3日に始まったの誤りです。現在暇を見つけて古い雑誌や昔の新聞の切り抜きなどをデジタル化しているのですが、特急「あすか」試運転の記事も機会があれば投稿したいなと思ってファイルを眺めていて気が付きました。なお。この時の試運転列車は6両編成で私もその後実際に見ましたがキハ80は落成が遅れたのか1両でキロ80は2両が組み込まれていました。