山陽新幹線全線開業目前、防・長・安芸に在来線優等列車を追って Ⅲ

国鉄
33M「みどり1号」 光ー下松 S50.3.2
  • 昭和50年3月、山陽新幹線博多開業を目前に控えた在来線列車の姿です。
  • 次位にED76(回送?)をつないだ貨物列車
    次位にED76(回送?)をつないだ貨物列車小郡発岡山行き342M
    小郡発岡山行き342M
    画質が悪いため判然としないが最後尾はパノラミックウインドウっぽい。もしそうならクハ86015ということになるが。1014M「つばめ7号」
    1014M「つばめ7号」ほぼ同時刻、1013M下り「つばめ2号」
    ほぼ同時刻、1013M下り「つばめ2号」モノクロで撮った34M「みどり2号」
    モノクロで撮った34M「みどり2号」203M「つくし1号」
    203M「つくし1号」1003M「つばめ3号」
    1003M「つばめ3号」穏やかな瀬戸内の海を眺めながらはるか大阪を目指す「なは」
    穏やかな瀬戸内の海を眺めながらはるか大阪を目指す「なは」サロがはずされた312M「山陽7号」
    サロがはずされた312M「山陽7号」1035M「みどり2号」
    1035M「みどり2号」

コメント

  1. 80系初代湘南型6連の342Mですが、最後尾は全金300番台クハです。窓枠のアルミサッシとやや広い黄柑色の幅がそれを物語っています。クハ86015は確かに広鉄局管内(広ヒロか広セキのいずれかは失念)に当時いましたが既に原型復旧されていてパノラミックウインドではありませんでした(ウインドシル・ヘッダーは無かったような記憶が…)。吹田工場担当の岡オカ車は300番台も在来車に合わせた黄柑色の塗分けでしたが、幡生工場=現:下関車両センター=担当だった広ヒロ・広セキ車は塗分け線を変えなかったので300番台は黄柑色の幅が広くなっていて識別ポイントでした。
    急行[山陽]には元々サロとサハシが入って10連でしたが末期は50-3以降の快速運用用にモノクラス6連にされてしまいました。然し昭和40年代後半、ハザ冷房化改造時には予備車として広セキの167系が編成内に入り文字通り異彩を放っていました。
    沿線で育ったアラカンロートルオジン[鉄]の昔話でした。

    •  私が初めて山陽本線の列車に乗ったのは、昭和42年(1967年)高校の修学旅行の帰路長崎本線の肥前山口から大阪まで集約臨に乗車した時でした。おぼろげな記憶によれば広島の手前当たりで夜が明け駅ですれ違う80系湘南電車の何本かをカメラに収めました。山陽線の列車は、その後新幹線の岡山開業前に何回か京阪神地域で撮影しましたが、山陽新幹線の全線開業で東海道の時とは異なり一部列車を除き昼行の優等列車が全廃されることを知り、意を決して撮影に出掛けることにしました。当時は今のように宿泊や列車の予約などがインターネットで簡単にできる時代でなく、みどりの窓口で指定券などを買い時刻表や宿舎ガイドなどの書物を利用して宿泊施設を決め電話などで予約するという時代でしたから数日間の旅行でも手間がかかりました。そのときの記録がここに投稿した写真です。
       前置きが長くなりましたが、件の342M列車の写真あらためて見てみると、塗り分けやアルミサッシ僅かに傾いた前面形状など確かにクハ86300台ですね。乗務員側窓と扉が合わさってガラス窓のように見えたので、そこから昔のガイドブックで知っていた86015かもと思ったようです。しかし、クハ86015とは車輌の向きも異なるようで、それと昭和43年2月に転属の際元のスタイルに戻されていたことなど湘南電車についての基本的な知識がないことを公言したような形になりお恥ずかしい限りです。この度は適切なご指摘ありがとうございました。他にも思い込みによる不適切な記載や誤りがあったらお知らせ下さい。今後ともよろしくお願いします。